「逃げの小五郎」から学ぶ、恥じることなく立ち止まり次の一手を見極める力

幕末

幕末の志士と聞くと、

命を懸けて突き進み、潔く散っていった人物像を思い浮かべる人は多いでしょう。

しかし、そうした英雄像とはまったく異なる異名で語り継がれる人物がいます。

「逃げの小五郎」。

この呼び名の主は、長州藩士・桂小五郎。

のちに 木戸孝允 と名を改め、

明治という新しい時代の政治を担った人物です。

一見すると否定的に聞こえるこの異名は、

実は幕末という極限の時代を生き抜くための、

きわめて理知的で現実的な判断を象徴しています。

幕末京都――志士にとって「生きること」自体が危険だった街

幕末の京都は、

志士にとって決して安全な場所ではありませんでした。

池田屋事件以降、

尊王攘夷・倒幕派への取り締まりは一気に強化され、

市中には常に緊張が張り詰めていました。

徳川幕府傘下の新選組や見廻組が、

倒幕派を捕縛するために市中を巡回していた京都において、

桂小五郎は、

正面からの死闘を避け、生き延びることを選び続ける人物として描かれます。

刀を抜けば名は上がる。

だが同時に、命を落とす可能性も極めて高い。

桂は、その賭けに乗らなかった志士でした。


「逃げの小五郎」という異名の正体

こうした行動の積み重ねが、

「逃げの小五郎」という異名を生みます。

武士にとって「逃げ」は恥。

それが当時の価値観でした。

それでも桂小五郎は、

その“恥”を引き受ける選択をします。

なぜなら、彼にとって重要だったのは、

目の前の名誉や一時の感情ではなく、

長州藩がこの先どう生き残り、どう動くのか

という構想だったからです。

物語が描いた桂小五郎の姿

桂小五郎の生き方は、

司馬遼太郎の小説

逃げの小五郎

でも印象的に描かれています。

新選組や見廻組が目を光らせる京都で、

桂はあえて戦いを避け、

変装し、潜み、時を待つ。

小説としての脚色はあるにせよ、

「今は立ち止まるべき時だ」

「ここで死んではならない」

という判断は、史実の桂小五郎とも重なります。

桂小五郎が見据えていたもの――長州藩の行く末

桂小五郎が逃げ続けた背景には、

長州藩の将来を見据えた冷静な視点がありました。

・ここで討たれれば、長州藩の構想は誰が担うのか

・過激な行動だけで、藩は本当に立ち行くのか

・幕府とどう向き合い、どの段階で動くべきなのか

桂が重視していたのは、

勢いや感情ではなく、

次の一手を誤らないことでした。

そのために必要だったのが、

恥じることなく立ち止まる判断だったのです。

明治維新後に表舞台へ立った理由

明治維新後、

彼が木戸孝允として表舞台に立ったのは、偶然ではありません。

幕末において

逃げ、耐え、考え続けた時間そのものが、

新しい時代に必要とされる資質を育てていました。

一時の戦いではなく、

その先に続く政治や制度を見据えていた人物だからこそ、

維新後の政治の中枢に立つ存在となったのです。

おわりに――恥じることなく、次の一手を見極めるために

「逃げの小五郎」という異名は、

弱さや臆病さを示す言葉ではありません。

それは、

長州藩の行く末と、

時代とどう向き合い、どう動くかという構想を失わないために、

恥を引き受けてでも立ち止まり、考え抜いた人物への評価でした。

幕末は、

命を散らした者だけが動かした時代ではありません。

生き残り、状況を見極め、

構想を手放さずに「次の一手」を探し続けた者たち。

その存在があったからこそ、

歴史は次の段階へと進んでいきました。

この姿勢は、現代を生きる私たちにも重なります。

忙しさや圧力、理不尽な環境の中で、

立ち止まることは敗北ではありません。

距離を取る。

環境を変える。

視点を上げて、全体を俯瞰する。

それは、

次の一手を誤らないための準備です。

桂小五郎が示した「逃げ」とは、

現実から目を背ける行為ではなく、

自らの立場と役割を冷静に見極める判断でした。

恥じることなく立ち止まり、

考え、そして次の一手を見極める。

「逃げの小五郎」という生き方は、

今を生きる私たちに、

静かに、しかし確かな示唆を与えてくれます。

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