

新選組の中で
「最強の剣士は誰か」と問われたとき、
多くの人が名前を挙げるのが沖田総司です。
若くして一番隊組長。
剣の天才。
そして、病に倒れた哀愁の剣士。
しかし沖田総司は、
単なる“強い剣士”ではありませんでした。
その素顔をたどっていくと、
新選組という集団の中でも
際立って異質な存在だったことが見えてきます。
新選組最強と恐れられた剣

沖田総司は、
近藤勇・土方歳三に並び、
新選組の象徴的存在でした。
実戦での評価は非常に高く、
斎藤一や永倉新八と並ぶ剣豪がいる中でも、
「別格」と語られることが少なくありません。
その理由の一つが、
沖田の代名詞とも言える
三段突きです。
気合と共に放たれる三段突き
三段突きとは、
気合とともに一気に三度突く技。
「や、や、や」
という気合とともに、
三歩の足遣いで三回突く。
この突きは、
沖田総司だけの独自技ではありません。
天然理心流の流儀として、
「突き技の際には必ず三回突く」
という決まりがありました。
つまり三段突きは、
流派として存在する技であり、
沖田はそれを
極限まで完成させた剣士だったのです。
三つが一つに見えた突き

沖田総司の三段突きが
特別視される理由は、
その速さと完成度にありました。
子母澤寛の『新選組遺聞』には、
佐藤彦五郎の子である
佐藤俊宣の談話として、
次のような証言が残されています。
沖田の突きは、
足拍子三つが続けて一つに聞こえ、
三本の突きが絶え間なく出され、
まるで一つの技のように見えた――。
三歩。
三突き。
それが分かれて認識できないほどの速さ。
だからこそ、
「実際には一突きだったのではないか」
という説まで生まれました。
しかし、この談話が示しているのは、
三回突いているが、そうは見えなかった
という事実です。
沖田総司の三段突きは、
見る者の認識を超える剣でした。
女遊びをせず、子どもと遊ぶ青年

新選組の隊士たちは、
命がけの日々の中で、
色町での女遊びに興じていたとも伝えられています。
しかし、
沖田総司に関しては、
そうした逸話がほとんど残っていません。
酒や遊女に溺れた話は見当たらず、
代わりに語られるのは――
子どもと遊び、冗談を言って笑わせる姿です。
屯所の近所の子どもたちと戯れ、
場の空気が重くなれば軽口を叩く。
刀を持てば恐れられる剣士。
刀を置けば、
誰よりも人懐っこい青年。
この極端なギャップが、
沖田総司という人物を
ただの剣豪で終わらせません。
結核という、どうにもならない敵

しかし、
どれほど剣が強くても、
勝てない相手がいました。
結核。
当時は不治の病と恐れられた病です。
激しい稽古、
張り詰めた警護の日々。
沖田の体は、
静かに、確実に蝕まれていきました。
池田屋事件の頃には
すでに兆候があったとも言われています。
それでも沖田は、
弱さを語ることなく、
最後まで剣士として生きようとしました。
哀愁の先に残った「一つに見えた三段突き」
沖田総司は、
明治元年、
江戸で静かにこの世を去ります。
25歳前後。
剣の天才には、
あまりにも短い生涯でした。
戦場に立つことは叶わず、
時代は終わり、
仲間は散っていく。
それでも――
沖田総司の名は、
「病に倒れた剣士」では終わりません。
三歩が一つに聞こえ、
三突きが一つに見えた剣。
その剣を振るった男として、
新選組最強の剣士という評価は
今も揺らいでいません。
哀愁を背負いながら、
それでも最強。
沖田総司は、
その矛盾を抱えたまま、
今も語り継がれているのです。
